漢詩作法入門講座

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作詩の要について - 淡窓詩話

淡 窓 詩 話 下巻

淡窓廣瀬先生著
男 範世叔校
  

○中川玄佳問 詩を作るの要、何を以て先とすべきや。

詩を作るには、位置を知るを以て先とす。三體詩の前實後虛、前虛後實、四實四虛の類、予始は無用の事とのみ思へり。今を以て觀れば、實に律詩を學ぶの要務なり。

律詩の前虛後實、前實後虛、絶句の起承轉合の類、是れ位置なり。位置卽ち篇法なり。古詩の位置は段落を明にするに在り。段落の分ち難きは、位置の正しからざるなり。是れ作者初より篇法あることを知らずして、口に任せて云ふ故なり。篇法已に正しくして、而後佳句を以て其間に挿む。詩家の能事畢れり。

少陵が「爲人性僻耽佳句。語不人死不休。」、また「陶冶性靈底物。新詩改能自長吟。」、此兩言、詩を學ぶの要務なり。少陵が詩聖たる所以は、全く此にあり。學者心を留むべし。

陸機が文賦に、「立片言以居要。乃一篇之警策。」と。此言最も詩に切なり。少陵が所レ謂佳句卽警策なり。此處に意を用ひば、必ず一世に詩名を成すべきなり。古今詩に名ある人、皆然らざるはなし。其門に在る者も、作家に非ずと雖も、往々一詩一聯を以て、名を後世に傳ふる者あり。博學能文の人たりとも、此處に心を用ひざる人は、詩に名なし。其門流の人も、亦一聯の賞すべきなし。

今人詩を學んで、佳境に至るを得ざること、其病根短を護するに在り。たヾ疵瑕の無きことを務め、觀者をして喙を容るヽ能はざらしめ、 以て意に慊れりとす。此の如くなれば、詩の佳趣妙境は、自然において論せず。唯字句の論のみにて過ぐるなり。人に正を乞ふも。其求むる所、疵瑕を去つて傍人の口を塞ぐに過ぎず。能々思ふべし。石は如何程無疵にても、玉の疵あるに如かず。李杜の詩とても、疵は如何程もあることなり。全篇無疵にて一佳句の摘むべきなきよりは、佳句ありて疵の多き方、遙に勝れりと知るべし。但し疵ありても佳句あるを善とすとは、位置正しくして、其中の字句に疵あるを云ふなり。若し位置あることを知らずして作れる詩は、佳句ありとても置くべき處なし。

孔子は之を非るに非る可きなきの郷原を取らずして、行ひ言を掩はざるの狂者を取り玉へり。今の詩人、詩に疵さへなゖれば好しと思ふは、詩中の郷原たることを求むる者と云ふべし。

古人云、「千練して字を成し、萬錬して句を成す」と。賈島は「獨行潭底影。數息樹邊身。」と云ふ句を三年にして作り得たり。自ら其後に題して曰、「二句三年得。一吟雙涙流。知音如不賞。歸臥故山秋」」と。古人の苦心想うべし。

予嘗て或人の稿に題して曰、「諸作非佳。但讀之生睡。其故有三。一曰、有篇而無句。二日、意象所無。虛構假設。三曰、 命意立言。不於花草蜂蝶之間。」と。今人の詩此類多し。

詩を学ぶ者、四の疾あり。一には速に成るを求めて、槌練苦思すること能はず。二には多く作るを貧りて、巧拙を擇ばず。三には全篇の疵なきを求めて、佳句を得るの望なし。四には難題を務めて人に誇らんとす。此四疾除かざれば、生涯詩の佳境に到ることななし。

遲く作りて速なること能はざるは、鈍才なり。速に作りて遲きこと能はざるは、粗才なり。鈍才は教ふ可く、粗才は教へ難し。

明人の詩論は、人を誤ること多し。胡元瑞が曰はく、「句に字眼あるは句の疵なり。少陵が『地坼江帆隠。天清木葉聞。』は『地卑荒野大。天遠暮江遲。』に如かず。『返照入江翻石壁。歸雲擁樹失山村。』は『藍水遠從千澗落。玉山高並兩峰寒。』に如かず」と。世人往々此腐談に惑はされて、渾成自然を口にし、生涯一佳句を得ずして終る者多し。

佳句は多くは景を寫す句にあり。然れども景を言ふこと、一首の中に多くすべからず。多き時は人をして厭はしむ。情を主として景を以て其間に粧點すべし。例レ之は、前庭に樹木を植うるは景なり。空地は情なり。樹木多くして空地なきはうるさし。空地ありて樹木なければ、玩賞すべき物なきが如し。

長篇を作るは、叙事に宜し。北征(五古)長恨歌(七古)の如きなり。其事もと觀る可くして、而後辭を以て之を飾る。故に讀人倦むことなし。今人の詩は、叙事にも非ず。口に任せて漫然として言ふ。自ら其長きを覺えず。大に讀者をして苦ましむ。予嘗て曰、「詩文能使讀者不(一レ)倦。乃可名家矣。」

近人所著の古詩韻範は、古詩用韻の法を明にせり。其說必しも拘るべからずと雖も。一読して可なり。

至て微細の景を寫すこと少陵に始まる。但五言に宜しくして、七言に宜しからず。「仰蜂粘落絮。行蟻上枯梨。芹泥隨燕嘴。花蘂上蜂鬚。」、皆五言の佳句なり。七言には此類見當らず。

七絶に瑣屑の事を述べて巧を顯すこと、范石湖が田園雜詩六十首を最とす。今の人紛々として其體を學ぶ。予は此體を悅ばず。石湖は爲めにすることありて作りし由聞及べり。

送別の詩專ら別情を寫し、輓詩專ら哀情を寫すの類、粘着して善からず。且つ熟套に墮ち易し。其人の平生を述べて、別情哀情は結末などに數語を用ひ、淡々に寫すを善しとす。此の如くなれ ば、筆力高く、且つ熟套を避くるに宜し。

雪月の類を寫す。是亦淡筆を用ふるを善しとす。叙述愈詳なれば、人をして愈厭靂はしむ。

王漁洋露筋祠に題して、守節の事を云はす。熟套を避くるなり。予が「謁菅廟」の詩に、遷謫の事を云はざるも、亦熟套を避くるなり。

詠物は纖巧に落ちて、體格下り易し。多く作らざるを善しのとす。若し作らば、梅櫻雪月等の物は熟套に落ち易し。珍奇なる物を詠ずべし。且つ寓意を用ふべし。是れ少陵が家法なり。

詩に風土を述ぶること、中晩唐に多し。樂天最も長ぜり。此の如くなれば、一首の中叙景多しと雖も害なし。送別に此體を用ふれば、熟套を避くるに易し。但今世流行の竹枝詞の如き厭ふべし。善きことも、節に過ぐれば皆惡し。予が言ふ所は、送別紀行などの中に風土をまぜて作るなり。

唐人の詩は法則正し。則るべし。初盛中晩、皆然り。宋詩は唐詩の正大なるに及ばず。宋詩の趣は愛すべし。其法は妄に學ぶべからず。唐人を師とするには如かず。七言律最も宋を學ぶべからず。

杜詩は學び易からず。之を學ばんとならば、五古七古五律を學ぶべし。七律は極めて學び難し。之を學べば、局促して伸ぶることを得ず。

白樂天の詩、平易條暢にして學び易し。其集中に就き、整齊なる詩を抄録して、之を讀めば、學者に益あり。其中の大冗大易大熟なる處は、學ぶべからず。

多く作りて長く作りて、人の厭はざることを欲せば、叙事を務むべし。少陵其開祖なり。樂天放翁皆其流亞なり。短く作りて少く作りて、世に傳はらんことを欲せば、王孟韋柳を學ぶべし。

王孟韋柳の體、其情景を寫す處、皆多言を用ひず。唯一句一聯の中に於て、其情狀をして宛然たらしむ。溫藉含蓄を主として、詳密富贍を好まず。今人此趣を知る人少し。

中晩唐の中に於て、其穩秀なる詩を擇び、朝夕之を諷詠すれば、大に學者に益あり。晩唐の詩と清人の詩は、最も讀者に卽效あり。

陸放翁は七律に長したる人なり。然れども其七律、唐人の精齊森嚴なるに及ばず。唐人を學ぶに如かず。其他の體は、之を學んで害なし。宋人の中にて放翁最も學ぶべし。東坡は善しと雖も、非常の才學あるに非れば、學ぶことを得ず。其他の諸子も、之を學べば奇僻に落ち易し。

唐宋詩醇は善書なり。但古詩を學ぶに宜し。近體に切ならず。

高青邱が詩、明朝第一たること甌北が說あり。誠に然り。予嘗て一讀す。極めて人に益あるを覺ゆ。

王李七子、皆情を寫して景を寫さず。予坊本の七子七律の抄中に就き、たヾ滄溟が「樹色遠浮疎雨外。人家惣斷夕陽前。」の一聯を取る。是れ少陵が「返照歸雲」の聯に劣らず。

「清人の詩は、唐詩を學ぶの階梯と爲すべし」と。先哲云へり。此言取るべし。清詩は典を用ふるに巧に、對を取るに巧に、議論に巧なり。之を讀めば、人をして趣向を生ぜしむ。但時々理屈に落つる處あり。讀者其心得あるべし。

沈德潛は詩に巧者なる人なり。其著述、唐詩別栽、明詩別裁、國朝詩別栽、皆學者に益あり。批評の中に人意を啓發する處多し。

邦人の詩、之を讀めば、極めて入り易し。必しも禁ずるに及ばず。但正享の際の詩は、今人卽に之を厭ふこと深くして、讀むに堪へず。近人の詩を讀むべし。六如茶山山陽など皆名家なろ。但燗熟に過ぎたり。讀者其心得あるべし。

正享の際、明體を學ぶ者の詩は、生に過ぎ、宋體を學ぶ者は、熟に過ぎたり。論語に「失飪不食」と見ゆ。此の二の者皆失飪なり。學ぶ人の腹中に宜しからず。

予曾て某生の詩稿に題して曰、「正享の際、學王李七子。雖山人野衲。其所言皆官情吏務。天明以来尚范陸之派。雖顯貴之人。所者不閒興野趣。夫詩言人情。人情不是偏。則詩道亦不是偏。」也。

明體を學ぶ者、好んで金玉龍風彩雲綺樹等の字面を用ひ、之を壯麗と思へり。佛檀の飾の如くにして、極めて人を俗殺す。予深く此類を憎む。此區域を脱せざる人は、與に詩を言ひ難し。

今人の詩、務めて風流の態を寫す。綸巾を載き、竹杖を曳き、香を焚き茶を煎じ、世事を忘却して、悠然自得すること等、詩として之れ無きはなし。果して其通の境界にして、心も其處に安ずることならば、左様に數々言ふには及ぶまじ。是れ全く假高士僞雅人と謂ふ可し。古人己が富貴に誇りて、「老覺腰金重。慵便枕玉凉。」と作りしを、評者之を乞食の語なりと云へり。然らば今人綸巾竹杖は、眞に俗物の語と謂ふべきなり。予も閒情野趣を好めども、頗る今人の撰と異なり、拙集を見玉はヾ、自ら明かならん。

詩は實際を貴ぶこと、今人皆知れり。但今人好んで瑣細鄙猥の事を叙べて、之を實際と思へり。予が所謂實際とは然らず。ただ人々の實境實情を叙べて、矯飾なき所を指すなり。然るに今人丁壯の歳に在りて、好んで衰老の態を寫し、宦途に在りて、專ら山林の景を寫す。目の觸る﹅にも非ず。情の感ずるにも非ず。唯古人の語を模倣するのみ。如レ此ならば、假令其情景見るが如くに寫したりとも、優人の假裝を爲すが如し。豈實際と謂ふべけんや。

明を學ぶ者は、專ら贈答を事とし、題に人の名なき詩は、百に一もなし。古人之を嘲りて、「以詩爲恙無雁」と云へり。今時宋を學ぶ者は、專ら詠物を事とす。是亦詩を玩具と爲すなり。其弊や同じ。

三都の市中に住する者は、山を見るも水を見るも、容易に得がたし。田園邱壑の樂は、生涯得べからず。故に其詩も或は贈答を專にし、或は詠物を務む。是れ勢の免れざる所なり。我輩幸に田舎に住して、何事を言ふも勝手次第なり。何ぞ彼等が不自由なる境界を羨みて、其口角を摹することをせんや。

予嘗て曰、「詩無唐宋明清。而有巧拙雅俗。巧拙困用意之精粗。雅俗係著眼之高卑。」と、予が詩を論ずる。此外に在ることなし。故に詩を學ぶ者は、務めて其才識を養ふべし。才を養ふは、推敲鍛錬に在り。識を養ふは、古人の詩を熟讀するに在り。前に論述せしが如し。後世詩を讀む者、務めて古人の佳語を剽掠して己が有とせんとのみ思へり。明清輓近の詩を讀むには、其通の心得にても苦しからず。宋以前の詩を讀むには、初より其通の心得にては、益なし。只何となく熟讀して其風味を知るに如くはなし。漢魏の高古なる、六朝の清麗なる、唐人の溫にして膄なる、宋人の冷にして痩たる、其他太白が飄逸、子美が沈鬱、王、孟、韋、柳、が清微淡い遠の類、何れも能く味ひて其差別を知るべし。如レ此なれば古人の風神氣韻、自然と我心に移り、其語を出すこと高雅にして、俗趣に墮ちず。是れ見識を養ふの道なり。今の人詩を作るに急にして、詩を讀むに遑あらず。故に才餘りありても識足らず、古人に及ばざる所以なり。

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