漢詩作法入門講座

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詩有強弱 - 詩學逢原

詩に強弱有り

凡そ人の詩を作るに、自然と強弱あり。譬(たと)えば人の性質、剛柔肥痩あるに同じ。是れ其の生質によるといえども、養生の仕形にて、弱き人も強剛になるまじきに非ず。尤も右に云う所の題によりて、句體に剛柔あることは勿論にて、それにはあらで、全體其の人の詩、たとえ河海風雷の詩にても、其の體とかく弱く見ゆるあり。又閨情閑適の詩にても、とかくそこに強みある人あり。古人とても然り。

唐の許潭、賈島が輩、全體の詩いわすにて、骨力無し。都(すべ)て婦人僧徒の詩、何を作りても、とかく柔弱に成ること、古今皆然り。是れ其の生質によるといえども、畢竟材力の弱き故なり。許渾、賈島が輩、學力甚だ薄く唯詩法のみ精(くわ)しき故、詩は面白けれども、力弱し。これを譬えるに、病人、花見するが如し。面白けれども、實は弱し。杜子美、韓退之が如きは、材學本(もと)(たくま)しき故、何を作りても自然に強みあり。富貴の人の茶の湯をするに同じ。何ほど佗(わび)ても實は厚し。其の弱からんよりは、寧ろ強かるべし。たとえ生質豪邁(ごうまい)ならず、柔媚(じゅうび)なる人も、學材さえ厚ければ、強み自然にそなわるべし。

故に葉秉敬(ようへいけい)が詩話に云く、「不三百篇、不以知詩之淵源、不讀五千四十八巻、不以至詩之幻化、不二|盡十三經、不足以開詩之作用、今人於此數書、窅不目、徒曰吾觀文選而巳、讀唐詩而已と、與村學究教痴兒讀千家詩何異(三百篇を読まざれば、以て詩の淵源を知るに足らず、五千四十八巻を読まざれば、以て詩の幻化に至るに足らず、十三經を読み尽くさざれば、以て詩の作用を開くに足らず、今人此の数書において、窅(よう)として目に接せず、徒に曰く吾文選を観るのみ、唐詩を読むのみと、村學究の痴兒をして千家詩を読ましむる者と、何ぞ異ならん)」。或人これを難じて曰く、詩經三百篇、多くは是れ帰人小子の作、漢高の大風歌、項王の垓下の歌、皆讀書の人に非ず。其の作に至りては、後世博學多材の老儒先生も、一言及ぶべきに非ず。故に嚴滄浪(げんそうろう)が曰く、「詩有別趣、非(詩に別趣有り、書に関わるに非ず)」と云えり。此の葉氏が説非なりと云う。是れ亦非なり。

嚴滄浪が説、或人の論は、詩の根本を云う者なり。葉秉敬が説は、詩を學ぶ法なり。但葉が言は甚しと謂うべし。十三經は、たとえ詩を學ばずとも、誰かこれを讀まざらん。五千四十八巻の如きは、目いまだ觸れずとも、何の害あらんや。謝靈運(しゃれいうん)、沈約(しんやく)が徒、繙經(はんけい)の人なれども、盡(ことごと)く大藏經を究るにも非ず。又經巻の力に依って、其の詩工(たくみ)なりとも見えず。其の餘、古今詩に名ある人、佛教を知らざる者多し。惟廣く經史に通ずると云いて可なり。

詩學逢原 卷之下 終

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