漢詩作法入門講座

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三体詩-七言絶句-虛接(3) - 漢詩の鑑賞

虛接

【原文】

周弼曰。謂第三句以虛語接前二句也。亦有語雖實而意虛者。於承接之間。略加轉換。反與正相依。順與逆相應。一呼一喚。宮商自諧。如用千鈞之力。而不見形迹。繹而尋之有餘味矣。

【読み方】

虚接(きょせつ)

周弼(しゅうひつ)(いわ)く、第三句(だいさんく)虚語(きょご)を以(もっ)て前二句(ぜんにく)に接(せっ)するを謂(い)うなり。亦(また)、語(ご)は実(じつ)なりと雖(いえど)も意(い)は虚(きょ)なる者(もの)(あ)り。承接(しょうせつ)の間(あいだ)に於(お)いて、略(ほぼ)転換(てんかん)を加(くわ)え、反(はん)と正(せい)と相(あい)(よ)り、順(じゅん)と逆(ぎゃく)と相(あい)(おう)じ、一呼(いっこ)一喚(いっかん)、宮商(きゅうしょう)(おの)ずから諧(かな)い、千鈞(せんきん)の力(ちから)を用(もち)うるが如(ごと)くにして、形迹(けいせき)を見(あら)わさず、繹(のべ)て之(これ)を尋(たず)ぬれば余味(よみ)(あ)り。

九日懷山東兄弟

原詩

「九日懷山東兄弟(王維)獨在異郷爲異客。毎逢佳節倍思親。遙知兄弟登高處。遍挿茱萸少一人。」

【作者】

王維(おうい)=(699〜759)。盛唐の詩人。字は摩詰。王右丞とも呼ばれる。李白が詩仙、杜甫が詩聖と呼ばれるのに対し、詩仏と呼ばれ、画についても、『南画の祖』と仰がれている。

【詩形】

七言絶句 仄起式 上平声真韻

【読み方】

九日(きゅうじつ)、山東(さんとう)の兄弟(けいてい)を懐(おも)

(ひと)り異郷(いきょう)に在(あ)って 異客(いかく)と為(な)り、佳節(かせつ)に逢(あ)う毎(ごと)に 倍(ますま)す親(しん)を思(おも)う。

(はる)かに知(し)る 兄弟(けいてい)の高(たか)きに登(のぼ)る処(ところ)、遍(あまね)く茱萸(しゅゆ)を挿(さ)して 一人(いちにん)を少(か)くを。

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【語 釈】

九日=九月九日。菊の節句、重陽節。この日、茱萸の小枝を髪にさして高い所に登り、菊花を浮かべた酒を飲み、災厄を払う風習があった。山東=注に「河北晋地太行山之東也」とあり。このとき王維は、広武城にいて、兄弟は、その東、河東大原に居していた。異客=他郷にいる人。佳節=めでたい日。思親=身内をなつかしく思うこと。登高處=重陽節に小高い丘や山に登ることをいう。茱萸=かわはじかみ。重陽節に高い丘や山に登り、この実のついた枝を頭にさすと邪気を祓うといわれている。はじかみは山椒。少一人=作者王維のこと。

「三体詩評釈(野口寧齋著)」に「此の詩は即ち陟岵の意あり。維の一門友悌母に事えて孝なり。故にその出言真摯にして深情紙上に溢る。帰愚云く、右丞悽婉の句多しと。此の種の詩に於いて之を見るべし。思親は兄弟の根する所、佳節は登高の本づく所、而して異客は『少一人』の由って来たる所なり。独と一人と首尾の関鍵をなして殆ど常山の蛇勢に擬すべし。詩の和易なるは解説を用いずして、章法の妙は亦此の如し。」とあり。

葉道士山房

原詩

「葉道士山房(顧況)水邊楊柳赤欄橋、洞裏神仙碧玉簫。近得麻姑書信否、潯陽江上不通潮。」

【作者】

顧況(こきょう)=(725〜814?)。盛唐から中唐の詩人。字は逋翁、華陽山人と号す。

【詩形】

七言絶句 平起式 下平声蕭韻

【読み方】

葉道士(ようどうし)の山房(さんぼう)

水辺(すいへん)の楊柳(ようりゅう) 赤欄(せきらん)の橋(はし)、洞裏(どうり)の神仙(しんせん) 碧玉(へきぎょく)の簫(しょう)

(ちか)ごろ麻姑(ま)の書信(しょしん)を得(う)るや否(いな)や、潯陽(じんよう)江上(こうじょう) 潮(うしお)を通(つう)ぜず。

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【語 釈】

葉道士=未詳。赤欄橋=赤い欄干の橋。碧玉簫=美しい簫の形容。簫は、管楽器。起句と承句は対句となっている。これを前対格という。この詩の場合、起句も押韻しているが、多くは押韻しない。これを「踏み落とし」という。麻姑=仙女の名。美しく、鳥のように長い爪をしているという。「孫の手」は、「麻姑の手」に由来すると言われている。注に「顔魯公が麻姑壇記に王方平、蔡経が家に過る、人をして麻姑と相聞せしむ、頃有りて人来りて曰く、麻姑が再拝より見ざること已に五百年、俄に麻姑至る、乃ち是の年十八九許りの好女子なり」とあり。潯陽江上=注に「江州に在り」とある。江州は、現在の江西省九江市あたり。この辺りを流れる揚子江を潯陽江と呼ぶ。不通潮=書信無きことをいう。注に「潮は潯陽に至りて回る、詩の意に謂わく、道路通ぜず恐らくは麻姑が信得難し」とあり。

「三体詩評釈(野口寧齋著)」に「此の詩、清麗綿渺、風調極めて誦すべし。其の麻姑が蓬莱清浅の事を以てこれを潯陽江上に応用したるが如きは尤も工絶と称す。朝潮夕汐、信あり違わず、潮にして通ぜずんば是れ明らかに信なきなり。以て上句の書信を得んや否やと云える語を解説す。亦頗る霊警を極めたり。赤欄橋畔楊柳正に緑に、 神仙洞裏玉簫徐に聞こゆ。此の中彷彿として別に如玉の可人あるものの如し。豈葉が当時嫟(女偏に匿)する所のものあるがために、故に其の詞を隠躍して以てこれに謔るる所あるか。然れども游仙恍惚の詞、概ね虚描を貴ぶ。調笑の語、必ずしも実事に非ず。其の一二謔語あるがために譏誚の意を帯びるものなりとして解するを須いざるなり。」とあり。

宿昭應

原詩

「宿昭應(顧況)武帝祈靈太乙壇、新豐樹色遶千官。那知今夜長生殿、獨閉空山月影寒。」

【作者】

顧況(こきょう)=(725〜814?)。盛唐から中唐の詩人。字は逋翁、華陽山人と号す。

【詩形】

七言絶句 仄起式 上平声寒韻
殿

【読み方】

昭応(しょうおう)に宿(しゅく)

武帝(ぶてい) 霊(れい)を祈(いの)る 太乙壇(たいいつだん)、新豊(しんぽう)の樹色(じゅしょく) 千官(せんかん)を遶(めぐ)る。

(なん)ぞ知(し)らん 今夜(こんや) 長生殿(ちょうせいでん)、独(ひと)り 空山(くうざん) 月影(げつえい)の寒(さむ)きに閉(と)ざさんとは。

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【語 釈】

昭應=地名。注に「関内道京兆府昭応県(関内道京兆府の昭応県なり)」とあり。現在の、陝西省。この地に華清宮がある。武帝=通常、「武帝」というと前漢の第七代皇帝を指すが、ここでは、その「武帝」の名をかり唐の玄宗をいう。太乙壇=太乙は、天の中心に位置する星の名、大一・泰一・太一に同じ。太乙壇は、太乙を祀る祭祀場の名。注に「漢書毫人謬忌奏祠太乙方、天子許之、令太祝領祠之於忌太乙壇上(漢書に毫人謬忌が太乙を祠るの方を奏じ、天子之を許す。太祝をして之を忌が太乙壇上に領祠せしむ)」とあり。新豐=古地名。照応のこと。新豊は漢代の県名。注に「驪山古驪戎国、秦曰驪邑、漢祖徒里民実之、命曰新豊、玄宗分置会昌県、尋改会昌、為照応(驪山は古の驪戎国、秦に驪邑と曰う。漢祖里民を徒(うつ)して之に実つ、命じて新豊と曰う。玄宗分ちて会昌県を置き、尋(つい)で会昌を改め、照応と為す)」とあり。千官=非常に多くの官吏をいう。千は実数ではない。ここでは玄宗が建てた華清宮の周りの多くの役所や役人の居宅があることを比喩する。那知=那は反語。どうして知ることができよう、いや、知ることはできない。長生殿=華清宮にあった宮殿の名。空山=奥深く静かで人気のない山。月影寒=寒々と照る月明かり。

「三体詩評釈(野口寧齋著)」に「武帝は玄宗を謂う。太乙壇を築きて神を祈るは、不老不死を求むるなり。樹色葱朧として中に千官を列し、群生望む可くして即く可からず。是其の盛時を想うことなり。長生殿上、人長生せざるを以て、太乙壇頭、霊を祈るに反応し、独字を以て千官に反照し、空山月影を以て新豊樹色に反映す。閉字最も凄涼の音を帯ぶ。」とあり。

江村即事

原詩

「江村即事(司空曙)罷釣歸來不繋船、江村月落正堪眠。縱然一夜風吹去、只在蘆花淺水邊。」

【作者】

司空曙(しくうしょ)=(720?〜790?)。中唐の詩人。字は文名、また文初。

【詩形】

七言絶句 仄起式 下平声先韻

【読み方】

江村(こうそん)即事(そくじ)

(つり)を罷(や)め 帰(かえ)り来(きた)りて 船(ふね)を繋(つな)がず、江村(こうそん) 月(つき)(お)ちて 正(まさ)に眠(ねむ)るに堪(た)えたり。

縱然(たとい) 一夜(いちや) 風(かぜ)(ふ)き去(さ)るとも、只(ただ)、芦花(ろか) 浅水(せんすい)の辺(へん)に在(あ)らん。

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【語 釈】

江村=江村は川辺の村。江郷に同じ。即事=その場のことを詠じた詩。正堪眠=堪は、耐え忍ぶの意ではなく、眠るに丁度よいの意。縱然=「たとい」と訓ず。たとえ、かりに。蘆花=あし、和名「ヨシ」。イネ科の多年性草木。「アシ」が「悪し」に通じる忌み言葉であることから和名は「ヨシ」と呼ぶ。暗紫色の穂状の花をつける。淺水邊=川の浅いところ。

「三体詩評釈(野口寧齋著)」に「此の詩は全く"不繋船"の三字より吐出して依傍する所なし。洛誦廻環すれば其の妙言うべからず。所謂之に遇えば深きに非ず、之に即けば愈々稀なり。脱し形似有れば手を握って已に逢うものなり。」とあり。

宮人斜

原詩

「宮人斜(雍裕之)幾多紅粉委黄泥、野鳥如歌又似啼。應有春魂化爲燕、年年飛入未央棲。」

【作者】

雍裕之(ようゆうし)=生没年未詳。中唐の詩人。

【詩形】

七言絶句 平起式 上平声齊韻

【読み方】

宮人斜(きゅうじんしゃ)

幾多(いくた)の紅粉(こうふん) 黄泥(こうでい)に委(い)す、野鳥(やちょう) 歌(うた)うが如(ごと)く 又(また)(な)くに似(に)たり。

(まさ)に春魂(しゅんこん) 化(か)して燕(つばめ)と為(な)り、年年(ねんねん) 飛(と)んで未央(びおう)に入(いっ)て棲(す)む有(あ)るべし。

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【語 釈】

宮人斜=墓所の名。注に「宮人を葬る処なり、長安旧牆の外三里に在り、宮人斜と曰う。風雨の夜多くして、歌哭の声を聞く」とあり。宮人は、宮中に仕えている女官、宮女。斜は、注に「後宮嬪妃の叢冢を斜と曰う」とあり。幾多=多いこと。多少に同じ。紅粉=紅とおしろい。宮女をいう。委黄泥=黄泥は 黄色い土(黄土)の泥。委は、ゆだねる。また、放置する意もあり。春魂=宮女の魂をいう。年年=毎年。年年歳歳。未央=宮殿名、未央宮。現在は、陝西省西安市の西北に未央宮遺跡公園として整備され、その園内に未央宮前殿遺跡がある。注に「未央宮は高祖の七年に蕭何が造る」とあり。

「三体詩評釈(野口寧齋著)」に「宮嬪の叢塚を名づけて斜と云う。長安宮牆外三里に在り。風雨の夜、其の歌哭の声を聞くという。詩は宮女の身後を想像して之を詠じ出し、黄泥は燕子の為に一閃す、野鳥の歌うが如く又啼くに似たるは春魂を吊するなり。眼前の野鳥を見て春魂の燕子に化せんことを思う。是れ此の詩の命意なり。」とあり。

過春秋峡

原詩

「過春秋峡(劉言史)峭壁蒼蒼苔色新、無風情景自勝春。不知何樹幽崖裏、臘月開華似北人。」

【作者】

劉言史(りゅうげんし)=(742?〜813?)。中唐の詩人。李賀と同時代の人。字不詳。

【詩形】

七言絶句 仄起式 上平声真韻

【読み方】

春秋峡(しゅんじゅうきょう)を過(す)

峭壁(しょうへき) 蒼蒼(そうそう)として 苔色(たいしょく)(あら)たに、風(かぜ)(な)くして 情景(じょうけい)(おの)ずから春(はる)に勝(まさ)る。

(し)らず 何(なん)の樹(き)ぞ 幽崖(ゆうがい)の裏(うち)、臘月(ろうげつ)(はな)を開(ひら)きて 北人(ほくじん)に似(しめ)す。

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【語 釈】

春秋峡=注に「彭城に在り、汴泗二水交流するを以って因って以って峡と名づく」とあり。また、「春秋峡は斉魯の間に在り、四時緑色にして変ぜず、故に名と為す」とあり。彭城は、現在の江蘇省徐州市、しかし春秋峡の現在については未詳。峭壁=高くそびえる崖。蒼蒼=青々としたさま。自勝春=承句の末三字の平仄が「●●○」としたが、今体詩では、「●○○」でなければならない。新字源を引くと、勝字は「かつ」、「まさる」のときは仄字、「たえる」のときは平字とある。もし、平仄は正しいとするならば、「自ずから春に勝えたり」と読むべきか。幽崖=奥深きにある崖。臘月=陰暦十二月のこと。臘祭が行われる月のこと。似北人=北人は作者のこと。似は呈似、示すの意。

「三体詩評釈(野口寧齋著)」に「峡は斉魯の間に在り。四時緑色にして変ぜず、故に名づく。此の詩は其の特異の風光を記するなり。峭壁、幽崖は即ち峡の実景なり。壁上の苔色年々新たなるが如し、是何の風情無きに似たるも亦幽致の春に勝る有りとなす。出語極めて偏奇なり。三四は更に一歩を進む。況字を加えて之を読むを可とすべし。峡の早暖なる臘月に花有り、直ちに其の何の花なるを説破せずして『不知何樹』の四字を以って宛転して下る。是れ曲折の妙なり。言史は趙人、故に北人という。似は呈似の似にして、略ぼ之を示と解するも不可なきに似たり。」とあり。

初入諌司喜家室至

原詩

「初入諌司喜家室至(竇羣)一旦悲歓見孟光、十年辛苦伴滄浪。不知筆硯縁封事、猶問傭書日幾行。」

【作者】

竇羣(とうぐん)=(760〜814)。中唐の詩人。字は丹列。

【詩形】

七言絶句 仄起式 下平声陽韻

【読み方】

(はじ)めて諌司(かんし)に入(い)りて、家室(かしつ)の至(いた)るを喜(よろこ)

一旦(いったん) 悲歓(ひかん) 孟光(もうこう)を見(み)る、十年(じゅうねん) 辛苦(しんく)して 滄浪(そうろう)に伴(ともな)う。

(し)らず 筆硯(ひっけん)の 封事(ふうじ)に縁(よ)るを、猶(なお)(と)う 傭書(ようしょ) 日(ひ)に幾(いく)(ぎょう)ぞと。

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【語 釈】

初入諫司=諫司は諫院に同じ。拾遺(しゅうい)は、君主に直言して失政を諫める官職。喜家室至=家室は家族。ここでは妻を迎えることを喜び作詩したの意。一旦=ひとたび、短い時間のたとえ。一且に同じ。悲歡=悲しみと歓び。見孟光=妻を喩えた語。孟光は、後漢の梁鴻の妻。後漢書の逸民伝に「梁鴻字伯鸞、扶風平陵人也。平陵県孟光、状肥醜而黑、力挙石臼、択対不嫁、至年三十。父母問其故。光曰、欲得賢如梁伯鸞者。鴻聞而娉之。既成婚、鴻曰、吾欲裘褐之人、可與俱隱深山者爾。今乃衣綺縞、傅粉黛、豈鴻所願哉。光曰、妾自有隱居之服。乃更為椎髻、著布衣。鴻大喜曰、此真梁鴻妻也。字之曰德曜、名孟光。(梁鴻、字は伯鸞、扶風平陵の人なり。平陵県の孟光、状は肥醜にして黒く、力は石臼を挙げ、対を択びて嫁かず、年三十に至る。父母其の故を問う。光曰く、賢なること梁伯鸞の如き者を得んと欲すと。鴻聞きて之を娉す。既に婚成りて、鴻曰く、吾は裘褐の人にして、俱に深山に隠れるべき者を欲す。今乃ち綺縞を衣、粉黛を伝うは、豈に鴻の願う所ならんや。光曰く、妾自ら隱居の服有り。乃ち更めて椎髻を為し、布衣を著す。鴻大いに喜びて曰く、此れ真に梁鴻の妻なり。之を字して德曜と曰う、名は孟光なり。)」とあり。余談であるが、自分の妻を謙遜した「荊妻」という表現も孟光が荊(いばら)のかんざしを挿したという故事によるものである。辛苦=苦労。辛いと苦い。伴滄浪=滄浪は漢水のこと。屈原が「楚辞」漁父に出てくる語で、ここでは流浪の時勢の比喩に使われている。不知=妻が知らない。筆硯=筆と硯。書き物をすること。緣封事=機密のため密封して天子に差し出す意見書。封章、封奏に同じ。猶問=共に苦労して来た妻は、未だ夫が君主に上奏する書を書いているとは知らず、貧乏であった頃の筆耕を相変わらずしていると思い尋ねたもの。傭書=筆耕のこと。日幾行=一日にどれほど書くことができますか、という意。

「三体詩評釈(野口寧齋著)」に「韋夏卿之を薦め、召されて左拾遺となる。初めて諌司に入るというは、此の時を指すなり。家室後れて至る。故に喜んで之を賦す。孟光は梁鴻の妻にして、偕隠して賢名有り。以て処士の家室に比するに切なり。『一旦悲歓』四字何の妙なきものの如くして、情緒筆端に迸る。悲は是れ十年辛苦して、我が江湖落拓せるに伴うなり。此の如くそれ逆境を同じくして順境に慣れず、故に今われ官守有り、封事の以て天子を諫むるものなることを知らず。尚筆硯を見て傭書すとなす。是貧に慣るるの語なり。借りて其の旧を忘れざるを誓い、同じく此の順境に入ることを喜ぶ。而して歓字は別に是を説くを用いざるなり。結語貧賎の婦人軽重を知らざるの情写し出して真に逼る。性霊の作を喜ぶものは必ず此の種を三復せざるべからざるなり。」とあり。

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