漢詩作法入門講座

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老子 第十九章〜第二十七章

『老子』は、『老子道徳経』あるいは『道徳経』とも呼ばれ、「老子」という人物が書いたとされる書であり、『荘子』と並ぶ道家の代表的書物である。著者の「老子」は、中国春秋時代、楚の思想家。姓名を李耳、字は耼といい、「老子」は、その尊称と言われている。不明な部分も多く、実在が疑問視されることもある。三清の一人である太上老君の神名を持つ。

本Webページでは、原文と訓読のみを掲載(素読)します。詳しい解説については、多くの書籍が市販されていますので、そちらの方をお読みください。

また、格言集や名言集などによく掲載されている部分を強調表示しました。

第十九章

絶聖棄智。民利百倍。絶仁棄義。民復孝慈。絶巧棄利。盗賊無有。此三者。以爲文不足。故令有所屬。見素抱樸。少私寡欲。

(せい)を絶(た)ち智(ち)を棄(ち)てれば、民(たみ)の利(り)は百倍(ひゃくばい)す。仁(じん)を絶(た)ち義(ぎ)を棄(す)てれば、民(たみ)は孝慈(こうじ)に復(かえ)る。巧(こう)を絶(た)ち利(り)を棄(す)てれば、盗賊(とうぞく)は有(あ)ること無(な)し。(こ)の三者(さんしゃ)は、以為(おもえ)らく文(ぶん)にして足(た)らずと。故(ゆえ)に属(ぞく)する所(ところ)(あ)りて、素(そ)を見(あら)わし樸(ぼく)を抱(いだ)かしむれば、私(わたくし)を少(すく)なくし欲(よく)を寡(すくな)くす。

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第二十章

絶學無憂。唯之與阿。相去幾何。善之與惡。相去何若。人之所畏。不可不畏。荒兮其未央哉。衆人熙熙。如享太牢。如春登臺。我獨泊兮其未兆。如嬰兒之未孩。儽儽兮若無所歸。衆人皆有餘。而我獨若遺。我愚人之心也哉。沌沌兮。俗人昭昭。我獨若昏。俗人察察。我獨悶悶。澹其若海。飂似無所止。衆人皆有以。而我獨頑似鄙。我獨異於人。而貴食母。

(がく)を絶(た)てば憂(うれい)(な)し。(い)と阿(あ)と、相(あい)(さ)ること幾何(いくばく)ぞ。善(ぜん)と悪(あく)と、相(あい)(さ)ること何若(いかん)。人(ひと)の畏(おそ)るる所(ところ)は、畏(おそ)れざる可(べ)からず。荒(こう)として其(そ)れ未(いま)だ央(きわ)まらざる哉(かな)。衆人(しゅうじん)は熙熙(きき)として、太牢(たいろう)を享(う)くるが如(ごと)く、春(はる)、台(たい)に登(のぼ)るが如(ごと)し。我(われ)(ひと)り泊(はく)として其(そ)の未(いま)だ兆(ちょう)せざること、嬰児(えいじ)の未(いま)だ孩(がい)せざるが如(ごと)く、儽儽(るいるい)として帰(き)する所(ところ)(な)きが若(ごと)し。衆人(しゅうじん)(みな)(あま)り有(あ)り、而(しこう)して我(われ)(ひと)り遺(わす)るるが若(ごと)し。我(われ)は愚人(ぐじん)の心(こころ)なる哉(かな)。沌沌(とんとん)たり。俗人(ぞくじん)は昭昭(しょうしょう)たり。我(われ)(ひと)り昏(くら)きが若(ごと)し。俗人(ぞくじん)は察察(さつさつ)たり、我(われ)(ひと)り悶悶(もんもん)たり。澹(たん)として其(そ)れ海(うみ)の若(ごと)く、飂(りょう)として止(とど)まる所(ところ)(な)きに似(に)たり。衆人(しゅうじん)(みな)(もっ)てすること有(あ)り、而(しこう)して我(われ)(ひと)り頑(がん)にして鄙(ひ)なるに似(に)たり。我(われ)(ひと)り人(ひと)に異(こと)なり、而(しこう)して(はは)に食(やしな)わるることを貴(たっと)ぶ。

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第二十一章

孔德之容。唯道是從。道之爲物。惟恍惟惚。惚兮恍兮。其中有象。恍兮惚兮。其中有物。窈兮冥兮。其中有精。其精甚眞。其中有信。自古及今。其名不去。以閲衆甫。吾何以知衆甫之然哉。以此。

孔徳(こうとく)の容(よう)は、唯(ただ)(みち)(これ)(したが)う。(みち)の物(もの)(た)る、惟(ただ)(こう)、惟(ただ)(こつ)。惚(こつ)たり恍(こう)たり、其(そ)の中(うち)に象(しょう)(あ)り、恍(こう)たり惚(こつ)たり、其(そ)の中(うち)に物(もの)(あ)り、窈(よう)たり冥(めい)たり、其(そ)の中(うち)に精(せい)(あ)り、其(そ)の精(せい)(はなは)だ真(しん)にして、其(そ)の中(なか)に信(しん)(あ)り。古(いにしえ)より今(いま)に及(およ)ぶまで、其(そ)の名(な)(さ)らず、以(もっ)て衆甫(しゅうほ)を閲(す)ぶ。吾(わ)れ何(なに)を以(もっ)て衆甫(しゅうほ)の然(しか)ることを知(し)るや。此(こ)れを以(もっ)てなり。

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第二十二章

曲則全。枉則直。窪則盈。弊則新。少則得。多則惑。是以聖人抱一。爲天下式。不自見故明。不自是故彰。不自伐故有功。不自矜故長。夫惟不爭。故天下莫能與之爭。古之所謂曲則全者。豈虛言哉。誠全而歸之。

(ま)がれば則(すなわ)ち全(まった)し。(ま)ぐれば則(すなわ)ち直(なお)し。窪(くぼ)かれば則(すなわ)ち盈(み)つ。弊(やぶ)るれば則(すなわ)ち新(あら)たなり。(すく)なければ則(すなわ)ち得(え)、多(おお)ければ則(すなわ)ち惑(まど)う。(ここ)を以(もっ)て聖人(せいじん)は一(いつ)を抱(いだ)いて、天下(てんか)の式(のり)と為(な)る。自(みずか)ら見(あら)わさず故(ゆえ)に明(めい)なり。自(みずか)ら是(ぜ)とせず故(ゆえ)に彰(あら)わる。自(みずか)ら伐(ほこ)らず故(ゆえ)に功(こう)(あ)り。自(みずか)ら矜(ほこ)らず故(ゆえ)に長(なが)し。夫(そ)れ惟(ただ)(あらそ)わず、故(ゆえ)に天下(てんか)(よ)く之(これ)と争(あらそ)うこと莫(な)し。古(いにしえ)の所謂(いわゆる)(ま)がれば則(すなわ)ち全(まった)しという者(もの)は、豈(あ)に虛言(きょげん)ならんや。誠(まこと)に全(まっと)うして之(これ)を帰(かえ)す。

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第二十三章

希言自然。故飄風不終朝。驟雨不終日。孰爲此者。天地。天地尚不能久。而況於人乎。故從事於道者。道者同于道。德者同于德。失者同于失。同于道者。道亦樂得之。同于德者。德亦樂得之。同于失者。失亦樂得之。信不足。有不信。

(まれ)に言(い)うは自然(しぜん)なり。故(ゆえ)に飄風(ひょうふう)は朝(あした)を終(お)えず、驟雨(しゅうう)は日(ひ)を終(お)えず。(たれ)か此(こ)れを為(な)す者(もの)ぞ、天地(てんち)なり。天地(てんち)すら尚(なお)(ひさ)しきこと能(あた)わず、而(しか)るを況(いわん)や人(ひと)に於(お)いてをや。故(ゆえ)に道(みち)に従事(じゅうじ)する者(もの)は、道(みち)は道(みち)に同(おな)じくし、徳(とく)は徳(とく)に同(おな)じくし、失(しつ)は失(しつ)に同(おな)じくす。道(みち)に同(おな)じくする者(もの)は、道(みち)も亦(また)(これ)を得(う)るを楽(たの)しむ、徳(とく)に同(おな)じくする者(もの)は、徳(とく)も亦(また)(これ)を得(う)るを楽(たの)しむ、失(しつ)に同(おな)じくする者(もの)は、失(しつ)も亦(また)(これ)を得(う)るを楽(たの)しむ。信(しん)(た)らざれば、信(しん)ぜらること有(あ)り。

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第二十四章

跂者不立。跨者不行。自見者不明。自是者不彰。自伐者無功。自矜者不長。其在道也。曰餘食贅行。物或惡之。故有道者不處。

(つま)だつ者(もの)は立(た)たず、跨(また)ぐ者(もの)は行(ゆ)かず、自(みずか)ら見(み)る者(もの)は明(あき)らかならず、自(みずか)ら是(ぜ)とする者(もの)は彰(あら)われず、自(みずか)ら伐(ほこ)る者(もの)は功(こう)(な)く、自(みずか)ら矜(ほこ)る者(もの)は長(なが)からず、其(そ)の道(みち)に在(あ)るや、余食贅行(よしぜいこう)と曰(い)う。物(もの)(あるい)は之(これ)を悪(にく)む。故(ゆえ)に道(みち)(あ)る者(もの)は処(お)らず。

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第二十五章

有物混成。先天地生。寂兮寥兮。獨立不改。周行而不殆。可以爲天下母。吾不知其名。字之曰道。強爲之名曰大。大曰逝。逝曰遠。遠曰反。故道大。天大。地大。王亦大。域中有四大。而王居其一焉。人法地。地法天。天法道。道法自然。

(もの)(あ)り混成(こんせい)し、天地(てんち)に先(さき)だって生(しょう)ず。寂(せき)たり寥(りょう)たり、独(ひと)り立(た)ちて改(あらた)めず、周行(しゅうこう)して殆(あや)うからず、以(もっ)て天下(てんか)の母(はは)(た)る可(べ)し。吾(われ)(そ)の名(な)を知(し)らず、之(これ)を字(あざな)して道(みち)と曰(い)う。強(し)いて之(これ)が名(な)を為(な)して大(だい)と曰(い)う。大(だい)を逝(せい)と曰(い)い、逝(せい)を遠(えん)と曰(い)い、遠(えん)を反(はん)と曰(い)う。故(ゆえ)に道(みち)は大(だい)なり、天(てん)は大(だい)なり、地(ち)は大(だい)なり、王(おう)も亦(また)(だい)なり。域中(いきちゅう)に四大(しだい)(あ)り、而(しこう)して王(おう)(そ)の一(いつ)に居(お)る。人(ひと)は地(ち)に法(のっと)り、地(ち)は天(てん)に法(のっと)り、天(てん)は道(みち)に法(のっと)り、(みち)は自然(しぜん)に法(のっと)る。

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第二十六章

重爲輕根。靜爲躁君。是以聖人終日行。不離輜重。雖有榮觀。燕處超然。奈何萬乘之主。而以身輕天下。輕則失根。躁則失君。

(おも)きは軽(かろ)きの根(ね)たり、静(いず)かなるは躁(さわ)がしきの君(きみ)たり。(ここ)を以(もっ)て聖人(せいじん)は終日(しゅうじつ)(ゆ)けども、輜重(しちょう)を離(はな)れず。栄観(えいかん)(あ)りと雖(いえど)も、燕処(えんしょ)して超然(ちょうぜん)たり。奈何(いかん)ぞ万乗(ばんじょう)の主(しゅ)にして、而(しか)して身(み)を以(もっ)て天下(てんか)よりも軽(かろ)んず。軽(かる)ければ則(すなわ)ち根(ね)を失(うしな)い、躁(さわ)げば則(すなわ)ち君(きみ)を失(うしな)う。

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第二十七章

善行無轍迹。善言無瑕謫。善數不用籌策。善閉無關楗。而不可開。善結無繩約。而不可解。是以聖人常善救人。故無棄人。常善救物。故無棄物。是謂襲明。故善人。不善人之師。不善人。善人之資。不貴其師。不愛其資。雖智大迷。是謂要妙。

(よ)く行(ゆ)くものは轍迹(てっせき)(な)し。(よ)く言(い)うものは瑕謫(かたく)(な)し。善(よ)く数(かぞ)えるものは籌策(ちゅうさく)を用(もち)いず。(よ)く閉(と)じるものは関楗(かんけん)(な)く、而(しか)も開(ひら)く可(べ)からず。善(よ)く結(むす)ぶものは縄約(じょうやく)(な)く、而(し)も解(と)く可(べ)からず。(ここ)を以(もっ)て聖人(せいじん)は常(つね)に善(よ)く人(ひと)を救(すく)う、故(ゆえ)に人(ひと)を棄(す)てる無(な)し。常(つね)に善(よ)く物(もの)を救(すく)う、故(ゆえ)に物(もの)を棄(す)てる無(な)し。是(これ)を襲明(しゅうめい)と謂(い)う。故(ゆえ)に善人(ぜんにん)は、不善(ふぜん)の人(ひと)の師(し)なり、不善(ふぜん)の人(ひと)は、善人(ぜんにん)の資(たすけ)なり。(そ)の師(し)を貴(たっと)ばず、其(そ)の資(たすけ)を愛(あい)せざれば、智(ち)ありと雖(いえど)も大(おお)いに迷(まよ)う。是(これ)を要妙(ようみょう)と謂(い)う。

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