漢詩作法入門講座

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論 語

『論語』とは、孔子と彼の高弟の言行を孔子の死後、弟子達が記録した書物で、『孟子』『大学』『中庸』と併せて「四書」の1つに数えられます。

詳しくは,フリー百科事典ウィキペディアの「論語」の項目を参照してください。なお、その解説の一部を以下に引用しておきます。

『論語』は漢代には魯地方で伝承していた『魯論語』、斉地方で伝承していた『斉論語』、孔子の旧家の壁の中から発見された『古論語』の3派があった。編の数や順序もそれぞれで多少、異なっていたが、後漢末期に『魯論語』をもとにして現在の形にまとめられた。

本Webページでは、原文と訓読のみを掲載(素読)します。詳しい解説については、多くの書籍が市販されていますので、そちらの方をお読みください(滄洲書店でもお手軽なものを掲載しています)。

論語 朱熹集註序説

史記世家曰。孔子名丘。字仲尼。其先宋人。父叔梁紇。母顔氏。以魯襄公二十二年。庚戌之歳。十一月庚子。生孔子於魯昌平郷陬邑。爲兒嬉戲。常陳爼豆。設禮容。及長爲委吏。料量平。爲司職吏。畜蕃息。

史記(しき)の世家(せいか)に曰(いわ)く、孔子(こうし)(な)は丘(きゅう)、字(あざな)は仲尼(ちゅうじ)。其(そ)の先(せん)は宋人(そうじん)、父(ちち)は叔梁紇(しゅくりょうこつ)、母(はは)は顔氏(がんし)。魯(ろ)の襄公(じょうこう)二十二年(にじゅうにねん)、庚戌(こうじゅつ)の歳(とし)、十一月(じゅういちがつ)庚子(こうし)を以(もっ)て、孔子(こうし)を魯(ろ)の昌平郷(しょうへいきょう)の陬邑(すうゆう)に生(う)めり。児(じ)と為(な)りて嬉戲(きぎ)、常(つね)に爼豆(そとう)を陳(つら)ね、礼容(れいよう)を設(もう)く。長(ちょう)ずるに及(およ)びて委吏(いり)と為(な)る。料量(りょうりょう)(たい)らかなり。司職(しと)の吏(り)と為(な)る。畜(きょう)蕃息(はんそく)す。

適周。問於禮老子。既反。而弟子益進。昭公二十五年甲申。孔子年三十五。而昭公奔齊。魯亂。於是適齊。爲高昭子家臣。以通乎景公。公欲封以尼谿之田。晏嬰不可。公惑之。

(しゅう)に適(ゆ)きて礼(れい)を老子(ろうし)に問(と)う。既(すで)に反(かえ)りて弟子(ていし)益々(ますます)(すす)む。昭公(しょうこう)二十五年(にじゅうごねん)甲申(こうしん)、孔子(こうし)(とし)三十五(さんじゅうご)、昭公(しょうこう)(せい)に奔(はし)り魯(ろ)(みだ)る。是(ここ)に於(お)いて斉(せい)に適(ゆ)き、高昭子(こうしょうし)が家臣(かしん)と為(な)る。以(もっ)て景公(けいこう)に通(つう)ず。公(こう)(ほう)ずるに尼谿(じけい)の田(でん)を以(もっ)てせんと欲(ほっ)す。晏嬰(あんえい)(き)かず、公(こう)(これ)に惑(まど)う。

孔子遂行。反乎魯。定公元年壬辰。孔子年四十三。而季氏強僭。其臣陽虎作亂專政。故孔子不仕。而退修詩書禮樂。弟子彌衆。九年庚子年五十一。公山不狃以費畔季氏。召孔子。欲往而卒不行。

孔子(こうし)(つい)に行(さ)りて魯(ろ)に反(かえ)る。定公(ていこう)元年(がんねん)壬辰(じんしん)、孔子(こうし)(とし)四十三(しじゅうさん)にして、季氏(きし)強僭(きょうせん)す。其(そ)の臣(しん)陽虎(ようこ)(らん)を作(おこ)し政(せい)を専(もっぱ)らにす。故(ゆえ)に孔子(こうし)(つか)えずして退(しりぞ)き、詩書(ししょ)礼楽(れいがく)を修(おさ)む。弟子(ていし)(いよいよ)(おお)し。九年(くねん)、庚子(こうし)(とし)五十一(ごじゅういち)、公山不狃(こうざんふじょう)(ひ)を以(もっ)て季氏(きし)に畔(そむ)き、孔子(こうし)を召(め)す。往(ゆ)かんと欲(ほっ)して卒(つい)に行(い)かず。

定公以孔子爲中都宰。一年。四方則之。遂爲司空。又爲大司寇。十年辛丑。相定公會齊公于夾谷。齊人歸魯侵地。十二年癸卯。使仲由爲季氏宰。墮三都。收其甲兵。孟氏不肯墮成。圍之不克。十四年乙巳。孔子年五十六。攝行相事。誅少正卯。與聞國政。三月。魯國大治。齊人歸女樂以沮之。季桓氏受之。郊又不致膰爼於大夫。孔子行。

定公(ていこう)、孔子(こうし)を以(もっ)て中都(ちゅうと)の宰(さい)と為(な)す。一年(いちねん)にして四方(しほう)(これ)に則(のっと)る、遂(つい)に司空(しくう)と為(な)り。又(また) 大司寇(だいしこう)と為(な)る。十年(じゅうねん)辛丑(しんちゅう)、定公(ていこう)を相(たす)けて、斉公(せいこう)を夾谷(きょうこく)に会(かい)す。斉人(せいじん)、魯(ろ)に侵地(しんち)を帰(かえ)す。十二年(じゅうにねん)癸卯(きぼう)、仲由(ちゅうゆう)をして季氏(きし)の宰(さい)と為さしむ。三都(さんと)を墮(こぼ)ち、甲兵(こうへい)を收(おさ)めんとす。孟氏(もうし)(せい)を墮(こぼ)つこと肯(がん)ぜず、之(これ)を囲(かこ)みて克(か)たず。十四年(じゅうよねん)乙巳(いっし)、孔子(こうし)(とし)五十六(ごじゅうろく)、相(しょう)の事(こと)を攝(か)ね行(おこな)う。少正卯(しょうせいぼう)を誅(ちゅう)す。国政(こくせい)を与(あずか)り聞(き)くこと三月(さんがつ)にして、魯国(ろこく)(おお)いに治(おさ)まる。斉人(せいじん)、女楽(じょがく)を帰(おく)りて、以(もっ)て之(これ)を沮(はば)む。季桓氏(きかんし)(これ)を受(う)く。郊(こう)に又(また)膰爼(はんそ)を大夫(たいふ)に致(いた)さず。孔子(こうし)(さ)る。

適衞。主於子路妻兄顔濁鄒家。適陳。過匡。匡人以爲陽虎而拘之。既解。還衞。主蘧伯玉家。見南子。去適宋。司馬桓魋欲殺之。又去。適陳。主司馬貞子家。居三歳而反于衞。靈公不能用。

(えい)に適(ゆ)き、子路(しろ)が妻(つま)の兄(あに)、顔濁鄒(がんだくすう)の家(いえ)を主(しゅ)とす。陳(ちん)に適(ゆ)き、匡(きょう)を過(よぎ)る。匡人(きょうじん)(もっ)て陽虎(ようこ)と為(な)して之(これ)を拘(とら)える。既(すで)に解(と)けて衛(えい)に還(かえ)る。蘧伯玉(きょはくぎょく)の家(いえ)を主(しゅ)として、南子(なんし)に見(まみ)ゆ。去(さ)りて宋(そう)に適(ゆ)く。司馬桓魋(しばかんたい)(これ)を殺(ころ)さんと欲(ほっ)す。又(また)(さ)りて陳(ちん)に適(ゆ)き、司馬貞子(しばていし)の家(いえ)を主(しゅ)とす。居(い)ること三歳(さんさい)にして衛(えい)に反(かえ)る。霊公(れいこう)(もち)いること能(あた)わず。

晉趙氏家臣佛肸以中牟畔。召孔子。孔子欲往。亦不果。將西見趙簡子。至河而反。又主蘧伯玉家。靈公問陳。不對而行。復如陳。季桓子卒。遺言謂康子必召孔子。其臣止之。康子乃召冉求。孔子如蔡及葉。楚昭王將以書社地封孔子。令尹子西不可。乃止。

(しん)の趙氏(ちょうし)が家臣(かしん)仏肸(ひつきつ)、中牟(ちゅうぼう)を以(もっ)て畔(そむ)き、孔子(こうし)を召(まね)く。往(ゆ)かんと欲(ほっ)して亦(また)(は)たさず。将(まさ)に西(にし)のかた趙簡子(ちょうかんし)を見(み)んとす。河(か)に至(いた)りて反(かえ)る。又(また)蘧伯玉(きょはくぎょく)が家(いえ)を主(しゅ)とす。霊公(れいこう)(ちん)を問(と)う。対(こた)えずして行(さ)り、復(また)(ちん)に如(ゆ)く。季桓子(きかんし)(しゅつ)す。遺言(ゆいごん)して康子(こうし)に謂(い)う。必(かなら)ず孔子(こうし)を召(め)せと。其(そ)の臣(しん)(これ)を止(とど)む。康子(こうし)(すなわ)ち冉求(ぜんきゅう)を召(め)す。孔子(こうし)(さい)(およ)び葉(よう)に如(ゆ)く。楚(そ)の昭王(しょうおう)(まさ)に書社(しょしゃ)の地(ち)を以(もっ)て孔子(こうし)を封(ほう)ぜんとす。令尹子(れいいんし)西(せい)(き)かず。乃(すなわ)ち止(や)む。

又反乎衞。時靈公已卒。衞君輙欲得孔子爲政。而冉求爲季氏將。與齊戰有功。康子乃召孔子。而孔子歸魯。實哀公之十一年丁巳。而孔子年六十八矣。

(また)(えい)に反(かえ)る。時(とき)に霊公(れいこう)(すで)に卒(しゅつ)す。衛君輙(えいくんちょう)孔子(こうし)を得(え)て政(まつりごと)を為(な)さんと欲(ほっ)す。而(しか)して冉求(ぜんきゅう)季氏(きし)の将(しょう)と為(な)りて、斉(せい)と戦(いくさ)して功(こう)(あ)り。康子(こうし)(すなわ)ち孔子(こうし)を召(め)す。而(しか)して孔子(こうし)(ろ)に帰(かえ)る。実(じつ)に哀公(あいこう)の十一年(じゅういちねん)丁巳(ていし)にして、孔子(こうし)(とし)六十八(ろくじゅうはち)

然魯終不能用孔子。孔子亦不求仕。乃敍書傳禮記。刪詩正樂。序易彖繋象説卦文言。弟子蓋三千焉。身通六藝者。七十二人。

(しか)れども魯(ろ)(つい)に孔子(こうし)を用(もち)いること能(あた)わず。孔子(こうし)も亦(また)(つか)えることを求(もと)めず。乃(すなわ)ち書(しょ)を敍(つ)いで礼記(らいき)を伝(で)し、詩(し)を刪(けず)り楽(がく)を正(ただ)し、。易(えき)の彖(たん)、繋(けい)、象(しょう)、説卦(せっけ)、文言(もんごん)を序(つい)ず。弟子(ていし)(けだ)し三千(さんぜん)。身(み)六芸(りくげい)に通(つう)ずる者(もの)、七十二人(しちじゅうににん)

十四年庚申。魯西狩獲麟。孔子作春秋。明年辛酉。子路死於衞。十六年壬戌。四月己丑。孔子卒。年七十三。葬魯城北泗上。弟子皆服心喪三年而去。惟子貢廬於冢上。凡六年。孔子生鯉。字伯魚。先卒。伯魚生伋。字子思。作中庸。

十四年(じゅうよねん)庚申(こうしん)、魯(ろ)の西(にし)のかた狩(かり)して麟(りん)を獲(え)る。孔子(こうし)春秋(しゅんじゅう)を作(つく)る。明年(めいねん)辛酉(しんゆう)、子路(しろ)(えい)に死(し)す。十六年(じゅうろくねん)壬戌(じんじゅつ)、四月(しがつ)己丑(きちゅう)、孔子(こうし)(しゅつ)す。年(とし)七十三(しちじゅうさん)。魯(ろ)の城北(じょうほく)の泗上(しじょう)に葬(ほうむ)る。弟子(ていし)(みな)(ふく)すること心喪(しんそう)三年(さんねん)にして去(さ)る。惟(ただ)子貢(しこう)冢上(ちょうじょう)に廬(いおり)すること、凡(およ)そ六年(ろくねん)。孔子(こうし)(り)を生(う)む。字(あざな)は伯魚(はくぎょ)。先(さき)だちて卒(しゅつ)す。伯魚(はくぎょ)(きゅう)を生(う)む。字(あざな)は子思(しし)、中庸(ちゅうよう)を作(つく)る。

何氏曰。魯論語二十篇。齊論語別有問王知道。凡二十二篇。其二十篇中章句。頗多於魯論。古論出孔子壁中。分堯曰下章子張問以爲一篇。有兩子張。凡二十一篇。篇次不與齊魯論同。

何氏(かし)(いわ)く、魯(ろ)の論語(ろんご)は二十篇(にじっぺん)、斉(せい)の論語(ろんご)は別(べつ)に問王(ぶんおう)知道(ちどう)(あ)り。凡(すべ)て二十二篇(にじゅうにへん)。其(そ)の二十篇 中 (にじっぺんちゅう)の章句(しょうく)、頗(すこぶ)る魯論(ろろん)に多(まさ)れり。古論(ころん)は孔子(こうし)の壁中(へきちゅう)より出(い)でたり。堯曰(ぎょうえつ)の下章(かしょう)子張(しちょう)(と)うを分(わか)ちて以(もっ)て一篇(いっぺん)と為(な)す。両(ふた)つの子張(しちょう)(あ)り。凡(すべ)て二十一篇(にじゅういっぺん)、篇次(へんじ)、斉(せい)魯論(ろろん)と同(おな)じからず。

程子曰。論語之書。成於有子曾子之門人。故其書獨二子以子稱。

程子(ていし)の曰(いわ)く、論語(ろんご)の書(しょ)は、有子(ゆうし)曾子(そうし)の門人(もんじん)に成(な)る。故(ゆえ)に其(そ)の書(しょ)(ひと)り二子(にし)、子(し)を以(もっ)て称(しょう)す。

程子曰。讀論語。有讀了全然無事者。有讀了後其中得一兩句喜者。有讀了後知好之者。有讀了後直有不知手之舞之足之蹈之者。

程子(ていし)の曰(いわ)く、論語(ろんご)を読(よ)みて、読了(どくりょう)して全然(ぜんぜん)(こと)(な)き者(もの)(あ)り。読了(どくりょう)して後(のち)に其(そ)の中(うち)一両句(いちりょうく)を得(え)て喜(よろこ)ぶ者(もの)(あ)り。読了(どくりょう)して後(のち)に之(これ)を好(この)むことを知(し)る者(もの)(あ)り。読了(どくりょう)して後(のち)(ただ)ちに手(て)の舞(まい)(あし)の蹈(ふ)むことを知(し)らざる者(もの)(あ)り。

程子曰。今人不會讀書。如讀論語。未讀時是此等人。讀了後又只是此等人。便是不曾讀。

程子(ていし)の曰(いわ)く、今(いま)の人(ひと)(しょ)を読(よ)むことを会(かい)せず。論語(ろんご)を読(よ)むが如(ごと)き、未(いま)だ読(よ)まざる時(とき)、是(これ)此等(これら)の人(ひと)、読了(どくりょう)して後(のち)(また)(ただ)(これ)此等(これら)の人(ひと)、便(すなわ)ち是(これ)(かつ)て読(よ)まざるなり。

程子曰。頤自十七八讀論語。當時已曉文義。讀之愈久。但覺意味深長。

程子(ていし)の曰(いわ)く、頤(い)十七八(じゅうしちはち)より論語(ろんご)を読(よ)む。当時(とじ)(すで)に文義(ぶんぎ)を曉(さと)る。之(これ)を読(よ)むこと愈(いよいよ)(ひさ)しくして、但(ただ)意味(いみ)深長(しんちょう)なることを覚(おぼ)ゆ。

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